些細

魚屋さんは、果物も一緒に売っていた。
種類は多くないけれど、季節のものを少しだけ。

果物は魚に比べて結構残る。
桃や、梨は安くはない代物だし。

見栄を張りたかったのかもしれない。
何故か、あたしは、魚と一緒に、果物を買った。
桃や梨なんかのちょっと高いものを。

雨の日だった。
あたしは、その日、デパートの帰り道で、
甘いものが食べたいな。
そうだ。チョコレートでも買おう。
と、駅前のコンビニに入った。

最初に雑誌のところをさっと見て、レジの前の人に目がとまった。
あれ?どっかで。
あの人、知ってる。

彼はこちらを見て、一瞬止まった後、会釈をした。
あたしもつられて会釈をした。

彼が普段着を着ていて、何だか嬉しかった。
彼の知らない一面を知った。

彼がこちら側に歩いてきて、
「偶然ですね。」
と言った。

「家この辺なんですか?」

「あ、そうなんですよ」

「今日はお仕事休みですか?」

「はい。今日は・・・。」


彼が言った。
「今日はどこか行かれたんですか?」

「え?どうして?」

「いや、だってキレイな格好してるから」

「買い物に行ったんです。だから」

「ああ、それで。買ったんですね。随分」
と言って彼が紙袋を指して笑った。

「じゃあまた!」
彼が出て行った。

あたしは、ドキドキするのを自覚してしまった。
彼に会えた事が嬉しかった。
恋をしているわけじゃなく、日常にちょっと紅を差したような
そんな楽しさだった。


それから、あたしはそのコンビニに立ち寄るようになった。
彼に会えるような気がして。

何度目かのコンビニ通いで、あたしはまた彼と再会した。

だけど。

彼の隣には、若い女の子がいた。
まだ大学生くらいかもしれない。
お洒落ともそうじゃないともいえない感じの普通の子だった。

彼が、あたしに会釈して、隣の子は不思議そうに、
あたしに会釈した。
あたしも会釈だけをして、彼とすれ違った。

彼女くらいいるか。

だけど、何でかあたしたちひどくよそよそしかったな。

嬉しかった。
彼がよそよそしい事にも。

あたしが「女」みたいな気がして。




木曜日、あたしは、また魚と果物を買って帰った。
その日は、魚も売切れてしまって、ざるを彼と魚屋のおじさんは
片していた。

あたしはてきぱき働く彼を見ながら、スーパーで買い物をする
振りをして、彼がトラックで退散した後に、帰った。

その日、夫が仕事で帰ってこなかった。
あたしは、塩焼きした魚を一人で食べて、そうして
夜を持て余して、酒屋に出かけた。
夜に出歩くのは久々。

夫が余り家では飲まないので、あたしもほとんど酒を
口にしなかったけれど、本当は食後に少し飲んだりするのが
スキなのだ。

財布だけを持って、ふらりと出かけた。
Vのセーターに、ぴたりとしたパンツをはいて。

駅前のコンビニを過ぎて、3分ほど歩いたところに酒屋がある。
駅前からはたくさんの中年サラリーマンが吐き出されている。

お酒を買った。
白の辛口ワインと、缶チューハイを2本。

駅前に戻った時に、
「こんばんは」
と声がした。

彼だった。魚屋のにーちゃん。

「あら、こんばんは」

「酒ですか」
彼がからかうように言うので、あたしは照れ笑いした。


あたしは、それから彼の家にいくことになり、そうして
予想したけれど、彼と寝た。


これが世に言う不倫ってやつなのだろうか。
彼と事を成した後、そう思った。


彼の家は、コンビニから歩いて5分ほどの小さなアパートだった。
小さくて、ごちゃごちゃしていて、古くて、男の人の小さな
住処だった。

あたしは、彼がこの近くに住んでいて、これから自分も
酒屋に行こうかな・・・と言ったので、思い切って「一緒に飲みます?」
と言った。
どうしてあんなことを言ったのかわからない。
その辺の居酒屋でもなんでもよかったのだけれど、
夫が帰ってこないこんな夜に、彼に会えた事を無駄にしたくなかった。

彼のセックスは、ひどく正統派で、あたし優先のやさしいセックスだった。
ひさびさだったような気がする。

こなれて、この後はこうするああするってほとんどパターン化している
エッチしか知らなかったあたしには新鮮だった。

彼はとても気を使ってくれた。
事が終わった時に、あたしは自分のやったことが現実でないような
気がして仕方がなかった。

案外、不倫や浮気なんてこんなものか・・・と思った。
最初からやろうやろうと思ってやるものじゃない。
何となく最初は日常なんだけれど、気がついたら、世間一般に言うそういうことに
なっていた。という感じ。

「マサキさんは、結婚してるんだよね?」
彼があたしの髪をすくいながら言った。
あたしは無言で。

「俺、最初、気がつかなかったんだ。
まだ若いでしょ?
だから、結婚していない人だと思った。
だけど、だんだん、毎週魚や果物を買う姿をみて、やっと
結婚してるんだよなーーって分かった。
鈍いから・・・俺」
一人で笑った。

彼はその後も一人で喋り続けた。
彼がおしゃべりだった事をはじめて知った。

「俺、マサキさんに憧れてた。
なんか。
なんていうか、美人・・・・だよね?」

「あたし?」

「うん。目立つよ。背もわりと高いし、すらっとしてるし、そんで
いつも控えめな格好だけど、お洒落な服でさ」

「そんなことないよー」
あたしは照れ笑いした。

「思ったことないの?言われたこととか。あるでしょ?
絶対自分は美人だって自覚してるだろーーー???」

「してないしてない!」
あたしはがばりと起き上がって言った。

「嘘つけーーー」
彼が笑って鼻をつまんだ。

「あ、ブスに見える」
彼が笑ってまた鼻をつまむ。
あたしは抵抗して、「ちょっとーー」
と怒って見せた。


そう。恋人同士ってこんなに楽しかったよね。

色とりどりの世界

この街に引越しをして3年になる。

割と閑静な場所にあるこのマンションは、少し駅から
坂道を上がらなければならないけれど、とてもいい場所だ。
目の前には小さな公園もあるし、小さなスーパーもちょこちょこあって
買い物にも困らない。

大きなスーパーよりも、こういうこじんまりしたスーパーがあたしは
すきなのだ。

このスーパーに、週に一度魚屋が来る。
スーパーの前にトラックを止めて、魚を売りに来る。
お昼過ぎの木曜日。

魚屋がくると、主婦がいっぱい群がり、ざる一杯の魚を買っていく。
魚や烏賊や、蟹や、その日の仕入れで違うけれど、
ざる一杯でいくらという売りかたで、結構たくさん買える。

人がいっぱい群がるところに割って入るのが面倒で
いつも素通りしてスーパーに入るのだけれど、その日は蟹が
いっぱいあったので、ちょっと蟹を買ってみようかと思った。

魚屋のお兄さんが威勢良く掛け声をかけていて、
「お姉さん!蟹安いよー。蟹」
とあたしに声をかけた。

お姉さん?
こういう商売は、おべっかを使うのね。
そう思うと、おかしかったけれど、それでも嬉しかった。

「じゃあそれを」

あたしが指を指すと、手早くそのざるを白いビニールに
ざっと入れて、
黒い小さめの蟹が5匹ほど入ったそれをあたしにくれた。

あたしはお金を渡し、彼はお釣りをくれた。

「ありがとう」
あたしは、「お姉さん」と言ってくれた彼に微笑んで、
いつもの坂道を上がり始めた。


「お客さん!」
そう言って、彼があたしを呼び止めた。
振り返ると、彼があたしを追いかけていた。

「すみません。お釣りを間違えたみたいで」

恐縮しているその姿が何とも、愛らしかった。

「あ、あたしも確認してなかったから。いくら?」

と財布を出した。

「いや、多く貰っていたんですよ。すみません。」

そうして、彼の手からいくつかのコインがあたしに渡され、
あたしは、彼の手があたしの手のひらに触れた事に
どきりとした。
暖かなしっとりとした感触。


彼とは、毎週その木曜日スーパーの前で会った。
彼は仕事で、あたしは一主婦として。

あの日からお互い顔を覚えてしまって
会うと、ぎこちない会釈をするようになった。

何も買わないのも悪いので、いつもあたしはその魚屋で
買い物をした。


他人から見れば、馬鹿馬鹿しいかもしれないが、あたしは木曜日のその日、
出かける前に口紅を引きなおすようになった。
彼に気があったわけでなかった。
だけど、男性の前で、一人の女としてきれいに写りたかった。
少なくとも、一番最初、彼はあたしを「お姉さん」と呼んだのだから。

小さなことでも嬉しいことがある。
小さな一言が嬉しいことがある。
旦那との間になくなった事実。

金魚鉢 kingyobachi

masaki-hmt2003-07-03

ひどく馬鹿馬鹿しいことが世の中にはあると思う。

あたしの日常。

彼の日常。


あたしは22歳のときに、今の旦那と結婚した。
だから、もう結婚して
6年になる。

彼とは大学の時からの付き合いで、
遠距離を当時していたあたしたちは、それが耐えられなくなって彼が
社会人になると共に、結婚と言う手段を使って同じ場所に
住む事にした。

あたしの日常は、
彼を送り出すために、朝食を作ることから始まり、
そうして家の家事と、少しの自分の時間と、
彼を迎え入れることで終わる。

あたし一人だったら、作らないような夕食を作って
彼を待ち、お風呂を沸かして、テレビをいくつか見て寝る。

毎日同じことの繰り返し。
あたしは、世間知らずだったと思う。

せめて就職くらいしていればよかった。
一度もまともに働いたことのない主婦が、仕事に就けるわけもなく
あたしは、結局金魚鉢の中にしか生きていけなかった。


「だったら、ネットとかで仕事でもしたらいいじゃないか?」

と夫が言った事がある。
テレビを見たまま、ご飯を食べながらそう言った。
馬鹿みたいに秋晴れの朝に。

夫は、会社員だけれど、ちゃんと毎月あたしたちが食べていく分には
十分なお金を入れてくれる。

だから、あたしは経済的な理由で働く必要はない。
だけれど、あたしの中で、ずっとあるもやもやしたもの。
一度も働いていないという劣等感。
何となく、自分は社会には機能していけなかったもののような気がして
癪に障る。
28という年は、決して年ではないと思う。
友達に結婚していない友人の方が多いのも事実。

人生がどことなく終わったという気がしていたのは、多分25くらいの
時から。
このまま、あたしは夫の妻として、ずっと何の変化もなく生きていくんだと。

あたしは、夫と付き合う前2人の男性と付き合ったことがある。

2人と、夫が決定的に違うところは、セックスだと思う。
夫しか知らなければ、それでよかったのかもしれないけれど、
夫はひどく淡白だ。

付き合っていた頃は、遠距離だったので、会う度に必ずセックスを
していた。
だから、夫はそう言う人だと思い込んでしまった。

実際結婚したら、それは週に一度になり、月に一度になり、
3ヶ月に一度になった。

あたしたちは、若くして結婚したので、そんなに子供を作ろうとも
考えなかったし、あたしも早々に子供がほしかったわけでもなかったので
子供の話は特にしたことがなかった。
だけど、セックスレスになり、6年の月日が流れた今、
なんとなく子供の話もあたしはできなくなってしまっていた。

子供がほしいというわけではない。
夫の反応が怖いのだ。
「え?要るの?」
と淡々とあの薄っぺらい唇で言われたら、あたしは、
ますます、金魚鉢の中で絶望してしまいそうだから。

普通を保っていること。
馬鹿馬鹿しいけど、それしかないあたしには、
大事なことだった。

なにも障らない。
壊さない。

大事なこと。


夫の嫌なところをわざわざ引っ張り出して、これから50年近くはある
時間に絶望したくなかった。